2008年02月28日
共和政時代のローマ
こんなことがあるんですね。
もっと勉強しないといけないですね。
共和政時代では建前上は執政官の諮問機関であったが、実質的には外交・財政などの重要な決定権を掌握していた。それはローマの国家を指して "Senatus Populus que Romanus"、略してSPQR(「元老院とローマの市民」の意)と呼ぶほどであった。また元老院議員の身分は終身であり、新たに元老院議員となるためにも元老院議員の家系の出身者であることが有利であったため、元老院議員達は特権階級としてローマ国家を動かしていた(ノビレス)。
元老院議員となるには有力家系の出身者が有利ではあったが、決して世襲でも自動的でもなかった。その資格は会計検査官を勤め上げた人物を対象に財務官が検討した上で決められていた(スッラの改革を経て、ほぼ自動に近くなっていく)。自動的であったのは護民官を経験した平民(プレブス)出身者のみである。
そしてそれらの官職を経て、軍事と深く関わる国政上の経験や見識を備えたエリートたち(国家の要職を目指すものには、軍隊経験が必須だった)を集めた機関が元老院である。終身制であったが故に選挙での票取りに気を回すことなく、長期的な視点に立って国家の道を指し示すことが期待された(その分、官職はほぼ全て選挙で選出される)。ローマは共和制とはいえアテナイのような民主政ではなく(ペリクレスの全盛時代に視察団を派遣してはいるが、その制度を取り入れることはなかった)、元老院という少数のエリートたちによって主導される寡頭制国家であった。
しかしポエニ戦争では十全に機能したこの元老院主導体制も、それを経て超大国となっていくにつれて議員の質も低下していき、体制も硬直化して機能低下していった。特に属州総督の地位を利用しての蓄財は共和制期を通じての問題であり続けた。ルビコン川からメッシーナ海峡までのイタリア半島が領土であった時代の体制では、地中海世界全域を勢力圏とする時代にはおのずと対応し切れなくなっていく。この事を鋭く見抜いたのがルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・ユリウス・カエサルである。スッラは体制の手直しをすることでその存続を図り、カエサルはそれを打倒しての新体制樹立を目指した。後者の帰結が帝政である。
そして帝政時代になると、元老院はしだいに皇帝の統治に組み込まれていき、その地位は低下していった。それでも五賢帝時代までは、「元首」である皇帝の正統性、後継者を承認する機関として重要であり、皇帝の発した勅令も法制化するには元老院の議決を必要とした。トラヤヌスなどの皇帝達も元老院の権威を尊重しながら統治を行なった。だが、続く軍人皇帝の時代になって帝国各地の軍団が勝手に皇帝を擁立するようになると、帝位の承認機関としての地位も失なわれ、ローマ市の市参事会(市議会)程度の役割しか果たせなくなっていった。
ローマ元老院は476年の西ローマ帝国の滅亡後も存続しており、西ローマを滅ぼしたオドアケル、それを滅ぼした東ゴート王国も元老院を尊重する姿勢を示していたが、イタリア半島へランゴバルト人が侵入した7世紀頃になると消滅してしまった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
保証人 中曽 的思考能力
4049 転送電話 曽根原 のごく個人的な意見
2849 重山 氏がんばってますよ
3149 松森 氏がんばってますよ
3449 神宮司 氏がんばってますよ
3750 私設私書箱 西室 さんの超個人的ブログ
4050 私設私書箱 曽根崎 さんの超個人的ブログ
4349 保証人 大桃 的思考能力
- Permalink
- by
- at 23:04
- Trackbacks (0)